私のような者は、
「豊橋」という名前を聞いて、まず思うのが、「豊かな橋」っていう安易な考え。
実際、海に向かって流れる川もあるし、
橋がムッチャ多いから豊橋市っていうのかもしれない。
豊橋市の由来について少し考えてみた。
さっそく、地図購入!!
豊橋の橋を
数えると、37本確認できました!!
び、びみょうな数!!
地図に載ってない小さな橋を入れたら、相当の数になると思い
実際に調査開始!!
ただ橋を見てもあまり面白くないので、
「豊橋の橋で端から端まで行ってみよう!!」
ということで、
豊橋の端の橋からスタートし、次の橋が見えたらその橋へ移動し、また次に見えた橋に移動するのを繰り返し、最終どこまでいけるか
というゲームを
一人でしてみた。
やるからには、東三河の白地図を自作し!!
行った橋に○をつけて行って!!
豊橋の端から端まで行こうじゃないか!!
ということで
スタートは、最西端であり蒲郡との境目である「浜田橋」。
交通量ハンパないのに、案外地味。
オッケー。
そこから見えるのは、企業団地を結ぶ「西浜大橋」。
タイミングによっては河口の水が引いてカラッカラになるので潮干狩りができそう!!
次に見えるのは「豊川橋」。
赤く、豊川の最も太い河口を覆う姿は迫力がある。
豊川橋からは「前芝大橋」と「渡津橋」の2つが見えるが、「前芝大橋」だとこの先で蒲郡市との境目で先に進めなくなってしまうため、
「渡津橋」を選択。
なんか渡津橋っぽい風貌!!
次に見えるのは「上渡津橋」
wikipediaによると一本前の渡津橋の交通混雑の回避のため建てられた橋らしい。
新幹線と名鉄・東海道線があり、
次が「豊橋」
そして「吉田大橋」
・・・
終わった。
これ以上何も見えなかった。
結果
・・・・
この地図を真っ赤にするつもりだったのに。
シュールすぎるので、
普通に豊橋の由来を調べました。
これが、意外に時間がかかった。。
まず、ネット検索
前述の通り明治新政府は当時の三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩(宇和島藩の支藩)(旧愛媛県北宇和郡吉田町、現愛媛県宇和島市)に似て紛らわしいとのことで藩名変更の命を下した。その命を受け藩主は「豊橋、関屋、今橋」の3つの名を選んだ。新政府はその一番目の「豊橋」を採用して、正式に「豊橋藩」という藩名とすることを命じた。その後廃藩置県の後も豊橋の名が使われる。
出典:wikipedia「豊橋市」
似てる地名があるから変えたってのはわかるが、
なんで選ばれたのか知りたい!!
その他のサイトもなかなか理解できる由来が書かれていないので、
図書館で郷土資料を探すが、
「明治維新を迎えると譜代大名である小藩吉田は藩論定まらず、去就に迷ったまま、明治2年、突如「豊橋」と改名させられる。いま、その真相は知る由もない。」・・・
出典:兵東政夫著「軍都豊橋」
明治維新後吉田藩は、豊橋藩、豊橋県と名称・管轄が変わったが、明治5年11月27日に愛知県の管轄となった。・・・
出典:三鬼清一郎編「愛知県の歴史」
など、明確な答えが見つけられない。
最後に頼ったのが、豊橋市。
市が市制施行100周年記念として刊行した「豊橋百科事典」
これに載っていました。
豊橋の橋の説明の欄に、以下の記載がありました。
豊橋は白鳥豊橋線(愛知県道496号・東海道)が豊川を横切るところに架けられた橋である。豊橋市船町と同下地町間を結ぶ。「豊橋」は、地名の「とよはし」と区別するために「とよばし」と呼称されることもある。
天生18(1590)年、吉田大橋として架設された。その後、幾度も改築・改修され「豊橋」とも呼称されていた。明治2(1869年)年6月、吉田(豊橋)藩は、吉田大橋の呼称「豊橋」より豊橋藩と改称した。・・・
出典:豊橋市刊行「豊橋百貨辞典」
やっぱり、あの橋から名付けられたんだ。
いちおう、あの橋まで、たどり着けてよかった。
ありがとう
「豊橋の橋で端から端まで行ってみよう!!」ゲーム
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